Evil spirit

穢れた血肉。

「私の船を馬鹿にしてもらっては困るな」


「腹がいっぱいのときもそうだが、極度の空腹のときも酔いやすいもんだ。
 あの薬は長らく使っていなかった胃の前座と、弱い酔い止めしか入ってないから、あとでちゃんとしたやつを」

「おい、あんた!俺の荷物はどこへやった!?」

「え、何?」

「俺の持ち物だよ!全部回収したんだろ?」

「持ち物っつったってお前、大したものは持ってなかったろ?着の身着のままだったじゃないか」

 「それでもゼロじゃねぇ!」

「私はお前を拾っただけで、あとは関与してないんだ。後で侍女長か何かに確認するか?」

 「今すぐだ」

 不安定な吊り床から苦労しながら降りると、危うく寝ていた一人を踏みかけた。
 何やら文句を言っていたが、構っていられない。
 謝罪もそこそこに、すぐ近くにあった階段を登ろうとする。
 しかし俺と出口の間を一本の腕が邪魔をした。
 壁に寄り掛かるようにして道を閉ざしたのはもちろん夏蔭だ。
 何をするかと睨みつけると、彼は険しい顔をして首を横に振った。

「白兎に安静にと言われてんだ。通すわけにはいかない」

 「この通り俺は元気だ。だから通せ」

「そりゃ海賊に所持品を預からせるのは心配だと分かる。だけど金品なんてなかったじゃないか」

「海賊だなんて、初めて聞いたな」

 こうして並ぶと夏蔭よりも俺のほうが背が高いと分かる。 だがその威圧にも怯む様子はない。
海賊というだけのことはあるらしい。
 真っ直ぐな瞳と油断のない佇まい。 それらにはあいつと共通するものがあった。
 『神が敵になろうとも、私はこの命尽きるまで若様に御供致す所存でございます』
 最期まで味方だと言ったあいつはもういない。
 俺が悪かったのだ。あいつが死んだのも、僅かばかりいた指示者を次々と失うのも、何もかもが。
 俺さえいなければ、何人の命が救われただろうか。
 俺さえいなければ、あいつも苦しまずに笑って過ごせただろうか。
 治ることのない生傷からまた血が吹き出した。
 無意識のうちに拳を握り締め、歯を食い縛る。
 戸惑いを含んだ視線が刺さったのを感じて、顔を向けると夏蔭は困ったような表情で頬を掻いていた。
 悩んでいるのか低く唸っている。
 彼は止めた息を長々と吐き出して、横に退いた。

「白兎の言うことに従うべきだろうが、ちょっと動くくらいならいいだろう。
 その代わり、荷物を確認したらさっさと寝床に戻れよ。個室も一ヵ所空けとくように言っといたから」
その白兎とやらがどんな人物かは知らないが、夏蔭はその女に頭が上がらないようだ。
 心底惚れて逆らうことすらしたくないということか。 ナイフをそのまま帯に差したので、ひどく適当な男だと思ったら、それは小柄だった。
 小柄は鞘の鯉口に添えて差す小刀のことだ。
 今では実用性よりも装飾性のほうが強く、柄には彫金がほどこされているのが常である。
 しかし彼の小柄はシンプルそのもので、使いにくさを排除した結果と見える。
 好色家でがさつという―そもそも海賊というものはがさつだろうが―最悪な印象を受けていたものの、それを見て少し見方が変わった。
 そして初めて太刀を差していることに気付いた。
 鞘を黒漆で一振り。
 日本刀は神人ならともかく、異人では持つことを許されない。
それは混血も同様である。
 島国として長い間、孤立してきた日ノ本では民族意識が強い。刀は神人の魂とも言える。
 それゆえ刀鍛冶は異国に渡ることを厳しく制限され、製造技術に関して管理は厳重だ。
 稀に日本刀を持つ者は、相当な地位か、模倣品かのどちらか。 諸国の大名から下賜された刀は権力の証だ。
普通は傷付くのを恐れて普段から持ち歩かない。
 だからそれを刃文のはっきりしない、絶対的に斬れ味の劣る模倣品と結論づけた。
 そもそも日本製の刀を持つようなやつが海賊業を営んでいるはずかない。
 彼が階段を登るのに続いて、一段目に足をかけた。
 途端に大きく傾く床。

「なっ!?」

「うおわっ!」
咄嗟に手摺を掴もうとした甲斐も虚しく、手は空を掻いた。
 不穏な音を響かせながら傾く船体は、俺を毬のように弄び、さっきのよりも二つ先の行李に叩き付けた。
 同時に床に寝ていた女たちも、籠に入った小豆のように転がり、壁にぶつかって吹き溜まる。
 それを見ながら必死に行李にしがみつく。 固定してあるようで、入れ物はその場を動かない。
 しかし前方から降ってきた靴が額に命中した。
 幸運にも吊り床にいた者たちは、上手いことバランスがつりあって被害はない。
 止まることのないように思えたこの異常な動きは、一定の角度を保ったまま危なっかしく終わった。
 ほっと息をついて、額に流れた冷や汗を拭う。

 「おーい、大丈夫かー?」
声を辿ってみると、手摺にしがみついた夏蔭がいた。
 自分だけ助かっている彼を見て、ムカつきが込み上げる。
 額から汗とは違うものが流れている気がして、乱暴にまたこする。

「無事なわけねぇだろ! なんだこの船は!オンボロじゃねぇか!」

「あ、言ったな。 私を悪く言うのはいいが、こいつを貶すのは聞き捨てならないぞ。
 助けて欲しくはないのか?
ほら、 すみませんはどうした?す・み・ま・せ・ん」
 見れば手には縄。 なんて汚い手を、と舌打ちせざるを得ない。
 だが夏蔭は俺が謝るのを待たずに縄を投げてきた。
 縄の端はギリギリ手の届く辺りに達した。
拒むのも何なので、ここは素直に命綱を掴む。
 上るのと同時に想像以上の力で縄を引っ張り上げられるので、すぐに優男の隣に辿り着いた。

「女たちはいいのか」

「あいつらはそこらの男より丈夫にできてるからな。
 文句を言わなくなったら、本格的にやばいってことだ」

 下を見ると安眠を邪魔された彼女たちは、口々に文句を唱えていた。
 夏蔭はたぐった縄をそのまま下に投げた。
 結び目を作った先端が一人の頭にぶつかり、それがまた文句を生む。
 水中しか見えなかったはずの明かり取りから、抜けるような青空が見えた。
 役目は終わったとばかりに彼は縄の反対側を壁の金具に引っ掛けると、くるりと振り返り、

 「この事態は異常だ。 この船は神木でてきてるから、ちょっとやそっとじゃ壊れない。
寿命だって普通のより長いし、こいつはまだ新しいほうだ。 もしかしたら敵から攻撃を受けたのかもしれないな。
じゃなきゃ海賊か。 海賊が海賊に襲われるんてとんだ笑い話だがな。 何があったか操蛇室に行って確認してくるが、お前も来るか?」

と一息に言ってのけた。
 何かしきりに上を気にしているようである。 ミシミシと木材の軋む不吉な音がした。

「やっぱりお前はここにいろ!」

 「お、おう」

頭上の跳ね戸に手をかけて、隙間から日光が差し込んだ。
どっと新鮮な空気が流れ込む。
 衝撃。
 地震が起きたかのような強い衝撃に、二人は成す術なく坂を転がり落ちる。
 天井が裂けた。
 飛び散る木片から咄嗟に顔を庇いながら、昔話の握り飯さながらにごろごろと転がった。
 裂け目から目にも止まらぬ速さで黒い影が飛び出し、あっという間に二人を床に縫い止める。
 腕ほどもある太い爪の間で、俺は息を飲んだ。鋭い爪は黄色く濁り、表面を細かに走る傷は赤黒さがこびりついている。
 早鐘のように脈打つ心臓は今にも飛び出しそうで、この化物の足にも伝わるかというほどだ。
 隣では肩から押さえつけられた夏蔭が、束縛から逃れようともがいていた。
 逃げ切れるはずがなかった。
 思い出した。
この式神に追いかけられて、白波が立つ岸壁から落下した事を。
 だが海に落ちたくらいで諦める式神ではない。
こいつはその牙でこの身体を噛みちぎるまで、黄泉の果てまでも追いかけてくるだろう。
 死が二人を別れつまでという文句は通じない。
 そのまま握り潰されるかのように思えたが、獣は突如として足を放した。
 釘を失った体は、ずるずると滑る。
 代わりに剛毛で覆われた鼻面がさしこまれて、辺りに生臭い強烈な悪臭がたれ込める。 死の臭いだ。
 僅かに開いた口からは血のように紅い二股の舌がチロチロと忙しく出入りし、鋭い犬歯からは透明な毒液が滴って貴重な神木に穴を開ける。
 その舌が頬を捕らえた。
 ぬめりのあるおぞましい感覚に全身が凍り付く。
 死ぬ。
 喉が悲鳴とも取れぬ、奇妙な音を生み出した。
 いや、死ねると言うべきか。
 必死に顔を式神からそらしていたが、海に落ちたときに死を願っていた事を思い出して、眼孔に流れる冷や汗も構わず、震えながら目を開いた。
 瞬間、獣の鼻面を閃光が貫く。
 どす黒い血が滴って、しゃがれた低い鳴き声を残して獣は引っ込んだ。
 そのまま何も出来ずに、訳が分からずに固まっていると、腰に手を回され、かけ声とともに肩に担がれた。
 夏蔭だった。
 見下ろせば右手に持つ刀から粘りの強い血を振り払っている。
 彼は流れるような動作で鞘に白刃を納めると、一連の事象を見守っていた女たちを見て、

 「即時撤収!!」

 と叫んだ。 そして自身も階段目指して走り出す。
 傾く床などおかまいなしだ。
 続いてバタバタと追ってくる音が後ろから響く。
 そして悲鳴を上げて転ぶ声も。

「ま、待てよ!ここは海だろ!? どこに逃げるってんだ!」

「逃げるんじゃなくて、戦略的撤退だよ。巻いてやる尻尾はないんでな。
 ここじゃ何かと分が悪い」

「女たちはどうする気だ!」

 俺を担いだまま階段に手をかけた彼は、きょとんとして顔を見た。

「どうするもこうするも、さっきも言ったが奴等も仲間だぞ?」

意味が分からずに眉間にシワを寄せると、夏蔭はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
 その表情があいつの表情にそっくりで、何も言う事ができなくなってしまった。
 幸い夏蔭は俺の異変に気付かなかったらしく、再び閉まってしまった戸の簡易な掛け金をはじいて外した。
 直に降り注いだ光が、埃にまみれた彼を照らし出す。

「うちの女郎供をなめるなよ」

 今度こそ跳ね戸の向こうへと飛び出した。