Cruise
予期せぬ変更。
「イスパニア、でござるか?」
一週間後、夏蔭が虎介からの報告を聞いて、まず提案したのはそこだった。
イスパニア王国といえば、日の沈まない国として勢いづいている国だから、上流階級は十分すぎるほど潤っているだろう。
折れかけた帆柱はもちろん神木製で、値は張るが前の戦で手に入れた品を換金すれば、諸費用を差し引いても有り余るほどだ。
あの人には報告と違うと絞られるだろうが、辿り着くまでに折れて海上で立ち往生するよりかは、幾分マシというものである。
それでもお仕置きを思って、顔が青ざめるのは止まらない。
「ならば早々に進路の変更を」
「それはもう操舵士に伝えてあるんだ」
白兎の心配そうな目に気付き、気を取り直そうと咳払いをし、取り繕うように言う。
「ブリタニアに行くのが遅れるのは残念だが、可哀想なあいつのためにもなる」
目印代わりに置いた碁石をもてあそびながら、外へと視線を投げた。
欄干にもたれて蒼く美しい海に臨んでいるのは間違いようもなく藤次郎だ。後ろ姿だがああいった行動をとる者は大抵船中り(ふなあたり)してい
る。
予想通り船員の一人が竹筒を差し出していた。
その後ろでは藤次郎の世話を任されていた者が、むせながら笑っていた。自分も昔はしょっちゅう酔っていたことなど忘れたとでもいうようだ。
自慢の海図を丸めて錠前付きの箱へ収めて、手近な戸棚から無数にあるうちの一つの小瓶を選び出す。
そして窓を開けて、藤次郎へ投げた。
傷一つない透明な小瓶は、日光を照り返しながら優美な弧を描き、
「いてっ!」
見事に命中した。
後頭部を押さえて辺りを見回した彼は足下に転がる瓶を見つけた。
いぶかしげにそれを見たあと、夏蔭と目があった。
数秒間睨みあう。
「夏蔭様にガンを飛ばすなんて、躾のなってない方ですね。沈められたいんでしょうか」
「落ち着いてくだされ」
といっても、藤次郎が一方的に睨んで、夏蔭は面白がってにやりとしていただけである。
ため息をつきながら無防備に腰を屈めて拾う隙に、こっそり藤次郎の後ろに回り込む。
悪戯心を失わないことは永遠に若くいるための秘訣だ。悪戯を仕掛けようと思わなくなると、生き物は老化したと判断される。
足音を押し殺して、気配を消す。
夏蔭の特技の前にあまりに無力だった陸の青年は災難をくらう羽目になる。
「ったく、陸の人間は軟弱でいけないな!」
「え」
瓶を手にして起き上がる藤次郎の肩を軽い気持ちで突く。
しかし力の加減を間違えたのか、細い身体は呆気なく手摺を越えた。
瓶に気を取られていた彼の目は驚きに見開かれ、落下しながらすぐさま状況に気付いて、叫ぶ。
「てめぇ!」
「あ、やべっ」
どぼん。
重い水音が響く。
慌てて手摺に寄りかかって、海を覗くとちょうど藤次郎が浮き上がってくるときだった。
飲み込んだらしい海水を吐き出そうと幾度も咳き込みながら、しきりに何か言っている。
八割方、いや十割か、夏蔭を罵っているのだろう。
とりあえず金づちじゃなくてよかった。
誰か落ちたよー。
え、誰?
あー、あれだ。例の男。
あたしも昔はよくやられたっけなぁ。
最近はやられても落ちないけどね。
あたしはこの前落ちたわ。
え、嘘だろ。
舳先で船長のマネしてたら、白兎に飛び蹴り食らった。
船端に身を乗り出して雑談にふける船員たちに助けようという気はないらしい。
落としたのは自分なんだから、自分で助けるのが当たり前なんだけどな。
苦笑して服を着たまま海に飛び込んだ。
「お前頭おかしいんだろ!もし溺れたらどうする気だ!」
救出した直後に浴びせられたのがこの言葉である。
「溺れなかったんだからいいだろ」
せっかく助けてやったのにと口をとがらせて言う。
これがそういう問題じゃないと怒りを煽る結果を招くのだが、さらに言い募る前に藤次郎の顔面に手拭いが直撃した。
そして夏蔭にも手拭いが渡される。
持ってきてくれたのは白兎だった。彼女はにっこり笑って夏蔭の横を通り過ぎ、藤次郎を過ぎ様に何事か耳打ちした。
驚いたのか何なのか、彼は行ってしまった白兎を勢いよく振り向く。
海水に混じって冷や汗をかいているようにも見える。
「・・・なんなんだあのガキ」
「紹介してなかったか?白兎っていってな、私の右腕だ。
可愛いだろ。やらないからな」
「いらねぇよ」
そう言って、藤次郎は膝に布を残したまま、両手で顔を覆った。毛先からぽたぽたと滴が落ちて、甲板に水溜まりが形成されていく。
そういえば文句を言ってはいても、顔は青白かった。この前少し物を食べたときは回復したように見えたが、再びの船中りのせいでさらに不健康な
色になったようだ。
適当に頭を拭いて、手拭いとともに置いていってくれた瓶を取る。
ぶつけたのとは違って中には数粒の丸薬が入っている。
感じなくなって久しいが、船中りの辛さはよく分かる。
手をよく拭いてから、丸薬を二粒出す。とてもうまそうな色には見えないし、実際うまいものではないが、良薬は口に苦し、だ。
片手を掴んで、手の平に薬をのせて、ついでに水を渡す。
だるそうな目が二つを見る。
「飲んどけ。楽になる」
海に突き落とされたこともあって、疑いの目が向けられる。それに対して夏蔭は満面の笑みで応じる。
変な薬だと思ったのだろうが、白兎が調合したものだから、そこらの酔い止めよりよく効く。うちの船員も初めは皆世話になったのだ。
しかし
疑っていたのは落とされたからだけではなかったらしい。
「まさか殺そうとか考えてないよな?」
何も信じられないといった風に言われて、夏蔭は一瞬笑顔を崩しかけた。
しかし堪えて、くつくつと喉で笑う。
「なんで殺さなきゃならないんだよ。お前を殺して、どこにメリットがある?」
それでも尚、薬を飲むのを拒む彼の顔には怯えとも取れる表情があった。
そういえば彼には人を寄せ付けないような雰囲気がある。何者も触れられない針鼠のように棘がある。
他人と関わるのを恐れているのかもしれない。
その証拠に今二人の間には話すには少々不自然な距離が空いている。
夏蔭の思考はそこで途切れた。
カーンカーンカーン
「おーい、みんなぁー!飯の時間だぁー!」
それを聞いた船中りの藤次郎は、顔をしかめるも、急いで丸薬を水で腑に流し込んだ。
ごくり、と喉を鳴らした直後、「うっ」とうめいて、鳩尾の辺りを押さえる。
「言っとくがその薬、古いやつしか残ってなくて、胸焼けがするかもしれんぞ」
だって船中りになる人間なんて、もうこの船からいなくなって久しいし。
ニヤリと笑って古いというところを強調して忠告すると、それを早く言えと言わんばかりに野犬の一匹くらいは射殺せそうな視線を送ってきた。
船中りに胸焼けときたらもう最悪の頂点だ。恨むのも分かる。
だがそれをしばらく耐えれば、二つの苦しみから解放されるのだ。
笑いを堪え、手拭いを畳み、
「胸焼けだってそう長続きしない。
だからそう睨むなって。せっかくのいい顔が台無しだぞ」
と言ったところで、はたと口をつぐんだ。
なんで気付かなかったのだろう。こいつは右目がない。
右目がない、という言い方には語弊があるが、顔の向かって左半分が包帯で覆われていた。
これに気付かない私って相当の馬鹿だ。いや、そういえば、件の式神が来たときに一瞬気付いたかも……。
そう思いつつもじっと見つめてしまい、恐る恐る聞いてみた。
「まさか、突き落としたときに」
「んなわけあるか。だったらもっと騒ぐだろ」
「ここに来たときからあったっけ?」
「当たり前だろ!お前は人のどこを見て話してんだ!」
「海?」
「人ですらねぇ」
藤次郎は別の意味で顔を覆ってしまった。
「あの式神にやられたのか?」
「ほっとけ」
その言い方があまりにも棘を含んでいて、触れられたくない話であると察するのは容易だったので、それ以上追求するのは止めにする。
誰にも人には話したくないことの一つや二つや十や百はあるはずだ。
「ところで飯はどうする気だ?
お前がいくら船中りで苦しんでても、胃の中身を全部出した後だったら、嫌でも働いてもらうんだぞ?
夜まで体力は持つか?」
「せめて少しは休ませろよ……。
俺は客だぞ」
「客ってのはな、何かしら有益なものを運んでくれるやつに当てはまるんだよ。
どこの馬の骨とも分からないお前を、何も聞かずに置いてやってるだけ感謝しな」
「だから言っただろ。俺はただの商人の子」
「じゃあ、屋号は?出身は?両親の名は?あんな上等な刀を持っていたのはどう説明する?」
刀は神人であれば、誰もが所持できるものではあるが、身分が違えばもちろん拵えに差が出てくる。
例えば農民は金や銀で装飾を施せない。
鍛冶場によって値段は様々だが、良質な玉鋼を使えば折れにくいものになるし、刃文も美しく現れる。金をかけなければ、折れやすく、綺麗な刃文も現れない。
だが藤次郎の刀は銀の意匠が品のある、直刃の刀。
いくら大商家であっても、家宝として扱うレベルのものだ。
私の刀には遠く及ばないが。
言われて初めて思い出したように刀の所在を聞く藤次郎は、続けて礼代わりにくれても構わないと付け加える。
これには夏蔭も片眉を上げて、いぶかしまざるをえない。
この言い種もそうだ。
奇妙なのは彼の持ち物を返したとき、真っ先に確認したのが刀ではなく懐刀であったこと。
白木の質素な品だ。とてもあんな刀を持っていたとは思えない。
懐刀には何の権力も付随しない。対して刀は織田の力の及ぶ限り、優遇されるという特権がある。
そうせよと具体的に発布されたわけではないものの、日ノ本の脅威に恐れおののく身だとするとそうしたほうが賢明という話だ。
まさか偽物だったりはなかろうか。いや、海賊の目に限ってそれはないだろう。
くれると言われたら貰う主義だが、夏蔭は考えを打ち消した。
「お言葉に甘えて……、と言いたいところだが刀はお前が持ってろ。
またあんなのが来たときに、得物がないと困るだろ?」
そう冗談めかして言うと、藤次郎はさっと顔を曇らせた。
無理もない。あんなことがあったのは、たった一週間前だ。
いくら死人が出なかったとはいえ、一商人(仮)には少々きつい場面だったか。
「元気出せよ。
今日は怪我したやつらの快気祝いなんだから。そんなんじゃ酒も不味くなるってもんだ」
励ますように肩を叩く。
信じられないというように目を見開いた彼は、キッと夏蔭を睨み付け、手を乱暴に払った。
「人が死んでんだぞ!よくもお前はそんな」
「いやいやいや、誰が死んだって?
そんなのは初耳だ」
手を振って否定すると、こっちこそ寝耳に水だというように目を丸くされる。
「確かに弾の二発や三発を受けたやつはいるが、別に致命傷になるような傷は一つもなかったんだ。
うちの船医の腕が天下一品ってのもあるしな」
白兎の姿を浮かべてニヤける。
才色兼備とは彼女のためにあるような言葉なのだ。
「待てよ。だってあんた動かなくなったヤツが何人も」
「ありゃショックで気絶してただけだ。急所にでも当たらない限り死にはしないよ。
だって考えてもみろよ。刀は刃が当たった分だけ斬れるが、弾丸なんてこんなしか傷にならないんだぜ?」
指で一般的な弾の目安を表す。
ましてや狙いもせずに易々と急所に当たるものか。
今回はそもそも銃から発射されたものではなかったため、弾道がずれ、弾速も遅いことで多少なりとも受け身が取れた。
日頃から什雜に咄嗟のかわし方の訓練を徹底させたことが幸運だった。
うんうんと一人頷いて納得ずくの夏蔭に対し、藤次郎はと言えばいらぬ心配をかけさせられて不服そうである。
甲板に降り立った鴎を追い払うように後をつけると、慌てた鴎はバサバサと飛び去っていった。