Fight
くだらない争い。
「あたしの焼き鯖ぁ!」
あまりに遅れると飯を全て食われてしまうので、階下に続く扉を開け、足早に揺れる階段を降る。
女ばかりだからと侮るなかれ。働きの大小に関わらず、やつらの食欲は底が知れない。
先には長く廊下が横たわっているが、そのうちの多くは船員たちの私室である。
地上に比べ、プライベートというものが希薄になりがちな海上だから、あまり中には入ったことがない。
たまには上司と関わりたくないときもあるだろうという配慮からだが、掃除に入る白兎や、何かと小言が絶えない炎魃曰く、中はかなり汚いらし
い。
見ないふりをしているが、たまに扉の隙間から悪臭が漏れている気がすることもある。
少しでも眉間にしわを寄せれば、白兎が部屋の住人を呼び出しにかけてくれるので、まさかゴミ箱のようにはなっていないだろう。
何人かで一部屋なので、ものが多くなるのは分かるが、ただでさえ多忙な彼女をさらに忙殺しようとする真似は止めてほしい。
次第に笑い声や楽しげな会話、それに怒声なんかが入り混じった歓声が聞こえ始めた。
その騒がしさをたどるように塵一つない廊下を進み、半地下のようになっている食堂へと降りる。
食堂は総畳敷きで、ずらっと膳が並べられており、その前で思い思いの楽な姿勢で船員たちがだべっている。
「お頭ぁ、遅すぎますよー。餓死でもさせようってんですか?」
「悪い悪い」
おあずけをさせられた犬のように膳の前に胡座をかいた彼らは、藤次郎を連れて降りてきた夏蔭を一斉に振り向いた。
中には手拭いで顔を吹いている者もいるが、多分さっき怒声の元凶だろう。つまみ食いを見咎められでもしたに違いない。
または隣からおかずを奪い取ろうと試みた結果か。確率は五分五分である。
上座にいる白兎と炎魃の間に座ると、藤次郎に顎ですぐ下に座るように促した。
巨大な盃に白兎が並々と酒を注ぐ。
「お前ら今日は分かってると思うが快気祝いだ。いつもの戦勝祝いと違って、まだ万全じゃない奴もいるだろう。
だから身体に響かない程度に羽目を外してくれ。
って言っても」
盃を掲げながらニヤリと笑う。
「誰も言うことを聞かないことは明白だがな」
「誰が言ってんだかね!」
どっと笑い声が広がった。
白兎はため息をついているが、その唇には微笑が浮かんでいる。
少し度が過ぎたからといって、目くじらは立てないでくれるだろう。
「じゃ、快気を祝って乾杯!」
各々の盃が掲げられ、掛け声とともに活気が満ちた。
いつものように膳上のおかずを奪い合ったりしているものの、やはりまだ痛々しい包帯が目立つ。
式神はあまりに金がかかるが、殺しは早く、堅実な手段だ。
そして目立ちにくくもある。
なるべく隠密に藤次郎を消したかったということか。それとも何か怒りを買ったのか。
夏蔭としては前者の確率が高いと思っていた。
下座でさっそく絡まれている藤次郎を見た。
口は悪いし、態度も悪いが、それは式神に狙われるほどの事態であるので殺気立っているからだと推測できる。
代わりに食事作法なんかは綺麗なものだ。
本丸まで連れていくべきか。上級武士の子だったらうるさいし。
夏蔭は藤次郎に声をかけた。
「この宴会が終わったら、早いとこ荷造りしとけよ」
「そろそろ目的地が近いのか?」
「目的地、ってわけでもないんだが」
濁り一つない酒を一気に飲み干し、膳に戻すと、阿吽の呼吸で白兎が注ぎ足した。
早くも泥酔した下戸の身体を押し返しながら、藤次郎は吸い物の器を取る。
盃の酒は今度はちびちび飲むことにした。
「帆柱の損傷が激しくてな。
初めは元から目指していたブリタニアにお前を下ろす予定だったんだが、一番近くて日本町が賑わってるイスパニアに進路変更だ」
途端に藤次郎が吸い物を吹き出したものだから、盃を庇いながら身を引く。
「い、イスパニアだと!?」
「きったねぇな……。
そうだよ。何か問題あるか?」
「イスパニアはダメだ!他ならキエフだろうとどこだっていいが、イスパニアだけはダメだ!」
ガチでキエフに下ろすぞ。
藤次郎の必死の反対を無視し、興を失しなった酒を置いて鱠を取った。
二、三切れ口に運んで一言。
「だが断る」
「もう行くって決めたんだから、二言はないな。
イスパニアが嫌なら、日本町の関所に言って他へ連れてってもらえばいいだろ」
神人は日本町のある場所なら、身分証なしに行き来することを許されている。
外部の移動手段を使うこともあるが、一番楽で金のかからないのは関所を使うことで、申請すれば大型式神が引く車に、タダで乗せてくれのだ。
当然夏蔭は使ったことがない。
内地を旅行しない限り、そんな移動方法は愚の骨頂だ。船で一番近い港まで行って、そこからじゃないと車になんか乗る物か。
的を射た意見に藤次郎は視線をさ迷わせた。
「そりゃ……、そうだけどよ」
「なんでイスパニアが嫌なわけぇ?
だってあそこ食べ物はおいしいしぃ、辛気臭いとこないしぃ、楽しいじゃなーい!」
「ラテン系の女の子は可愛いのよ!あたしには劣るけど!
ね、お頭!」
「うっわ、お前ら酒臭っ!
この短時間でどれだけ飲んだんだよ!」
「ねー、飲み比べしようよお頭ー!
あたし今度こそぜったい負けないっ!」
「耳元で大声出すな!
そういうことは炎魃に頼めよ。あいつ虎なんだから」
「某がそうならば、夏蔭殿は大虎でござる」
「じゃ、私は大取りだな。
勇者は中堅を倒してから来い」
「えぇ〜!あたしの酒が飲めないってのかぁ!」
蒼海は唇をとがらせて不満を露にした。
彼女の頭からは相手は仮にも上司ということが抜け落ちているらしい。
いっぺんどついたろかなと考えながら、酒を口に運ぶと、陶器の割れる音とともに目の前から彼女が消えた。
「清海、死なないで!傷はまだ浅かろうぞぉ!」
「わあい、川の向こうでおばあちゃんが手を振ってるよぉ……って、熱っ!?あっつ!!」
「あんまりしつこくするから!」
湯飲みの割れる無機質な音は騒然とした場内に響き渡り、辺りは一瞬静まり返った。 姉妹を除いて。
双子の妹である伊三が、湯飲みをくらって倒れた清海の手を取って、姉の愚行を嘆いた。
ましてや茶は淹れたて熱々。青海のダメージは計り知れない。
つと右に視線を向けると、にっこりと微笑む白兎が。
「黙れ酒乱」
ごもっともです。
そうは思ったが、この一言で完全に騒音が消え去ってしまい、気まずくなってしまった夏蔭は空咳をした。
可愛い白兎の言うことは正しいし、その行動には助かったところは多いが。
助け船的なものはないかと酒をあおったところ、そういえば藤次郎との会話が途中だったことを思い出した。
「ええと、それで何の話だったっけ?そうだ、昆布だ」
「違いますよ。若布ですよ」
「海苔でござる」
「訳が分かんねぇ!
てめぇらは何を聞いてたんだ?」
この会話を皮切りにまた賑やかさが戻ってきた。
さっきの清海とのやりとりの間に酔ったのか、少し顔が赤い。声もでかい。
伊三は
「そんなに怒ることないだろ、ちょっとしたジョークなんだから。
ちゃんと分かってるって。イスパニアに行きたくないって話だろ?」
夏蔭はしばし思案した。
「じゃ、こうしよう」
手を打って侍女を呼び寄せ、一言二言耳打ちする。
一度下がった彼女が現れ持ってきたのは、一際大きな朱塗りの大盃だ。
重なったそれらを二つに割り、一方を藤次郎に渡す。
ほろ酔い気味の彼は、今さらこんな大盃を持ってくる意味が分からないというように首をかしげた。
「宴会での揉め事はこれで解決するって決まってんだ」
「……大道芸でもやるつもりか?」
「いつもより多めに回したりしねぇよ。
そこの清海が言ってただろ。飲み比べだ」
互いの盃に酒が注がれた。日本酒独特の甘い香りが立ち上る。
藤次郎は水面に映る顔をじっと見つめていた。
一瞬断るかに思えた。
というよりも、断ってくれた方が無難である。何せこの酒のアルコール度数は四十六度。
酒豪で有名な軍神の治める越後の酒である。藤次郎の言うことを聞く気がなくて出させた酒だが、これのせいでぶっ倒れられても困る。
下ーりーろ下ーりーろ、と心の中でコールしながら、周りの飲んだくれどもから盃を守り続ける。
しかし藤次郎は両手で抱えた盃を一気に傾けた。
喉を鳴らして中身を飲み下していく姿は、海賊目から見てもなかなかのもの。
「お頭ー!負けたら承知しないからねー!」
「むしろ負けるところを見たい!」
「お頭負けてー!!そしてあたしの一日下僕を!」
「お前ら後で覚えとけよ。そして賭けをしてるのはお前らじゃない」
場違いも混じる声援を受けながら、半分まで飲んで一息ついた藤次郎を横目に、水でも飲むように酒を飲み下した。
それから三日後、船は滞りなくイスパニアに着いた。
次々に積み荷を下ろしていく部下たちを監督しながら、キセルを吹かして近くの木箱に寄りかかるように肘をつく。
女性の船乗りは珍しいことこの上ないので、道行く屈強な男たちは一様に二度見していく。
船乗りに流通する迷信には、船に女を乗せることは不吉だというのがあるのだ。
変な気を持たれたら、こちらもそれなりの態度を取るが、幸いなことに下卑た声をかける輩はいない。
胸一杯に煙を吸い込み、そして吐き出す。隣ではしゃがんだ藤次郎が深いため息を吐いた。
「こんなに早くイスパニアに着くなんて聞いてねぇぞ……」
「虎介に点検させる前からダメそうだって分かってたからな。行き先はさっさと決めるに限る」
「方向の変更も気付かないなんて、とんだ鈍物ですね」
白兎、そんなこと言うなって。
木箱の上で鼻で笑った白兎を藤次郎がギロリと睨んだので、それを叩き落とすように睨み返す。
しばらく勇敢にも彼は白兎を睨み続けたが、ついには夏蔭の視線が居たたまれなくなって舌打ちして目を背けた。
「でもあの飲み比べに勝てたら、本当に行き先は変えたぞ?」
「最後に樽飲みしたやつに勝てるわけねぇだろ!」
力任せに地面を叩かれて、思わず肩をすくめた。
そう、途中まではいい勝負だった。
うちの船員たちもびっくりな酒量。空にしたあの大盃とセットの徳利は数知れない。
宴も酣になったころ、すでに泥のように酔っ払っていた藤次郎は、ふらつきながら外に出ていく夏蔭を見て、安心したはずである。
だが夏蔭が再び戻ってきたとき、その腕には小樽が抱えられていて、あろうことかその栓を自分で抜いてラッパ飲みを始めたらしい。
らしい、というのも、そのときの記憶が全くないのだ。
その姿を見て諦めがついたのか、藤次郎は急に突っ伏して眠ってしまったとか。
炎魃曰く私もさすがに樽飲みは白兎に止められて、数人がかりで樽から引き剥がされたるとほどなく眠りに落ちたと。
やはり全く記憶にないが。
「そもそも夏蔭殿に飲み比べで勝負をつけようなどという考えが浅はかなのだ」
どしんと音を立ててあからさまに重そうな長持ちを置いた炎魃はそう言って鼻で笑った。
「夏蔭殿は船でも一、二を争う大虎。あの信長様にも勝ったとかいう話だ」
「くそっ」
始めから聞いていればやらなかったというようなことを呟くと、藤次郎はそっぽを向いてしまった。
あのあと猛烈な二日酔いに悩まされていたから後悔するのも分かる。もしかしたら船中りもあったかもしれない。夏蔭は翌日もスッキリ爽やかに起床したが。
ちなみに信長に勝ったというのは嘘である。やつは酒を一滴も飲まない。
勝負はしたにはしたが干し柿食い対決で、当然のことながら負けている。干し柿はあまり得意ではないのだ。
まあ、それにしても、あの柿はそこそこうまかった。織田信長が口にするものなのだから、高級品なのだろう。