Counterattack
先立たぬ後悔。
「炎魃!」
彼はハッチから覗いた顔に余程安心したのか、まるで犬のように駆けてきた。
藤次郎をまず甲板に投げ出し、続いて自分も這い出すと、一拍遅れて酔いどれ供がぞろぞろ現れる。
幸いなことに怪我人はいないようだ。
ぐるりと見回すと、すでに所定の位置に鉄砲衆たちが配置されていて、一斉に夏蔭の背後を狙い、あとはもう引金を引くだけという状態だった。
「無事でござったか!式神が船尾に穴を開けて中を襲い始めたときは、肝が冷える思いでしたぞ!
何せ船に弾を撃ち込むわけにはいかず、ただ見ているしか」
「夏蔭様!」
鉄砲頭の什雜と話していた白兎が、軽やかな足音を鳴らして走る。
彼女は三歩前ほどで止まると、感極まったのか黒曜の目を濡らし、慌てて涙を袖でぬぐった。
その雫の美しさときたら聖水のようである。
「この白兎、万が一にも夏蔭様に何事かありましたら、命を捨てる覚悟がございました。
ですが傷一つなくお帰りになられて私は私は」
彼女はそう言って言葉をつまらせた。
何この天使も裸足で逃げ出すような可愛い生き物。
「白兎……!」
「夏蔭様!」
二人は固く抱き締めあった。
銃を構えて緊張を高める鉄砲衆にとっては迷惑な話であるが。
しかすこの船に一ヶ月も乗っていれば、こうなることは予測済みではあったろう。
放っておけばいつまでもやっているので、炎魃が控えめに空咳を繰り出した。
「夏蔭殿、今はそのようなことをしている場合では」
「ああ、そうだな」
白兎を抱き上げ、二日酔いがひどい奴は隠れてるように指示を出し、他も足を引っ張らないように注意を促す。
式神が海に落ちたのかもしれないが、すぐに上がってくるに決まってる。
どれだけ素早く撃退できるかが、海上戦でのカギになってくる。
藻屑になるのだけは勘弁願いたいものだ。
鉄砲頭の什蔵を呼んで守備を聞くべきか悩んでいたところ、聞きなれた金属音を感じた気がして振り向いた。
金属音の元凶は拳銃だった。
持つのは藤次郎。照準は夏蔭の頭である。
彼の険しい顔つきに比例して、船上の空気が一気にはりつめるのを感じ、片手で部下たちをなだめた。
特に炎魃など尻尾を踏まれた虎のようだ。
肩に頭をもたせかけていた白兎は、黒曜石の瞳を細めて、藤次郎を透かそうとするように見ていた。
「舟を出せ」
「馬鹿言え。今の状況分かってるのか?
沈没船として引き揚げられるのはごめんだよ」
「そっちじゃねぇよ!小型の救助船みたいなのがあるだろ!」
「いや、まあ、あるにはあるが……」
「お前、命の恩人に何してんだ!
恥を知れ!」
「外野は黙ってろ!
さっさと用意しろ!死にたいのか!」
それはこっちのセリフだ。
顔を真っ赤にして怒り狂う炎魃をものともせず、彼の指がセーフティロックをはずした。
しかしそれでも命の危険を感じるべきは藤次郎のほうだ。なにしろ周りを銃のプロに囲まれている。
その指が引金を引く前に、無数の弾丸が身体を貫くだろう。
だがそれよりも必要以上に切羽詰まった口調が気になった。
こいつは小心者なのだろうか。
男で小心者とはどうしようもない。女もではあるが。
男は度胸、女も度胸。
仕方がない。
戦闘可能な式神を見るなんてことは、生まれてこのかた初めてに違いない。
何にしろこんな状況で彼が炎魃に後ろから刺されても困るので、白兎を抱き直し、ため息をついた。
「舟を出してやれ」
「夏蔭殿!」
「ついでに食料も積んでやれ。
私事に巻き込むのは申し訳ないからな」
ここから出てしまえば関係のないことだ。どこぞで野垂れ死のうが、波に飲まれようが知ったことではない。
一度は救ってやったのだから、それでチャラだ。
しかし全くの部外者を巻き込むのが申し訳ないというのも事実。
しかも相手は高い着物を着たお坊っちゃん。足手まといだ。
早々に目の届かぬところへ消したほうがいい。
しかしそれも今では叶わぬようだ。
鼻を鳴らして白兎を下ろし、小乱の刃を抜き払った。
一気に空気が張り詰める。
潮風が吹くと藤次郎の前髪が乱れて、包帯に隠された右目が露になった。
少し意外に思うが、それは表情に出さない。
「残念だが、時間切れのようだ」
「何を」
続きを聞く前にタックルをかました。
と同時に首筋を走る烈風。
逃げ遅れた髪が切り離されて宙を舞う。
降り立った式神は想像以上に巨大だった。
甲板の縦幅半分ほどもある巨体は腕ほどもある爪と牙を備え、赤茶けた剛毛は濡れて爬虫類的なきらめきを見せている。
「うっ……」
舌が出入りする口の臭いは最悪で、言うなれば腐った生ゴミと汚物を混ぜたような。
余りの悪臭に顔をしかめた。
常人より鼻のいい白兎も袂で鼻を覆う。
体躯にしては小さく円らな瞳は、ほとんど視覚機関としての役割は果たしていないらしい。
恐らく蛇のように体温で獲物を判断しているのだ。
探すように首を巡らす獣を刺激しないように、そろりと身を起こし、藤次郎の腕を掴んで引きずる。
筋肉など欠片もないかと思っていたが、触れば中々に鍛えられていると分かり驚いた。
彼は見入られたかのように獣から目を離さない。
式を挟んで向かい側に合図を送ると、鉄砲頭が頷いて采配を振った。
「撃て!」
耳をつんざく轟音とともに最新式のライフルから放たれる弾丸が、次々と式神の身体を捕らえた。
しかし分厚い剛毛が行く手を阻み、傷一つつかないらしい。
平然とした顔のまま獣は蚊でも追い払うように身体を振るった。
その様は水を飛ばす犬のようだが、飛ぶのは水だけではない。
「お前ら伏せろ!」
跳弾するがごとく弾が返ってきたのだ。
予想外の展開に身を固くした彼女たちは、成す術なく弾の餌食となり、次々に倒れた。
甲板が一気に血の臭いに染め上がり、やつの口臭など分からなくなり、綺麗な陣を描いていたはずの部下たちはまばらに残るだけ。
急所を外した者たちは遮蔽物の後ろに下がろうとするが、数名は全く動かなかった。
殺された。
己の判断の間違いに歯を食い縛るばかり。
ゴミを排除した獣は緩慢な動きで、射手を振り返った。
そしてうってかわって対照的な素早さで彼女らめがけて走り出した。
脚力の強さに床が抉れ、点々と足跡を残す。
「やめろ!」
叫んだのは藤次郎だ。
殺戮者を追うように走ろうとするが、その行く手を阻む。
「やめとけ。殺されるのが落ちだぞ」
「俺のせいで人に死なれてたまるかよ!」
「何を言ってる?」
あまりに不可解な言動だ。
あれは私を狙ってきたというのに。
問いには答えず、彼は横を通り過ぎ駆けた。
あの爪と牙が無防備な射手たちを切り裂くまであと少し。
だが焦ることはない。
ボロボロになった陣形の数メートル前で、海とは正反対の鮮やかな炎が舞った。
血の臭いの上に肉の焼ける臭いが重なり、獣は痛みのあまり怒りに吼える。
充血した見えもしない目で突然の攻撃をお見舞いしてきた敵をギロリと睨み付けると、獣は無事なほうの前肢を振るう。
しかし飛んだのは首ではなく、その前肢だった。
耳障りな叫び声を上げる獣に辟易したように顔をしかめると、その後ろにはぼとりと肉塊が落ちる。
「下衆が」
赤熱した十字槍を携えた炎魃である。
彼は足元にいた腿を撃たれて動けない射手に肩を貸すと、獣に興味は無くなったとばかりに彼女を運び始めた。
焦ることはないと思いはしても、反して動悸の早くなってしまった心臓を一つ叩いて戒めた。
信じぬ心は最大の裏切り。
右肩を斬られ左肢を失った式神は、痛みのあまりに身を捩らせる。
その隙を見逃すわけにはいかなかった。
「総員構え!
放てぃ!」
鉄砲頭の鋭い声が響いたかと思うと、態勢を立て直した射手たちが一斉に銃口から火を噴かせた。
弾はほぼ全弾が傷に命中。
血飛沫が飛び散り、怯む。
詰んだか。
そう思い、出番の無くなった刀を鞘に戻すが、やつは思いの外元気だったらしい。
マ
ガジンを入れ替える僅かな間を見計らい、獣は逃げ場を探して、慌てて帆柱を駆け上った。
片腕だけでよくもという腕力である。
柱が嫌な悲鳴を上げた。獣が上るに従って、しきりに揺れているようでもある。
そのとき夏蔭は血が滴ってこないのに気付いた。
傷口にあれだけ弾をぶちこまれれば、筋肉も血管もズタズタで出血死は免れないはず。
通常の獣であれば。
だが式神の一番の強みは、核である起請文を傷つけられない限りは死なないところにある。
事実あの式神の肩の傷はすでに固まりつつあり、足の断面は盛り上がりそれを形作ろうとしていた。
「ああ、面倒くさいな……」
損傷した体の高速再生は、全ての式神の特権ではない。偽物の異国製では、そこまでの性能は期待できない。だからこそ安価で使われやすいのだ。
だが残念な事に、この式神は日ノ本製だった。恐ろしく高いが、恐ろしく質が悪い。
炎魃の一撃で仕止め、鉄砲衆でだめ押しとはいかないようだ。
多分足が治るまで時間稼ぎをしようというのだろう。
命に従うくらいしか知能はないのに、こずるいやつめ。
両腕では抱えきれないほどの柱がミシミシと軋む。
帆柱が倒れるが先か、式神が回復するが先か。
どちらにしても最悪の展開だ。
夏蔭は手をかざして帆桁を仰ぎ見、標的の位置を確認した。
はぜるような音とともに次第に皮膚を無数の青い閃光が這う。
僅かに髪を逆立てながら、一気に足の筋肉を収縮させた。
「待て!」
集中が途切れて行き場を無くした閃光は、静電気となって飛び散った。
いかにも迷惑という視線を腕を掴んだ藤次郎に投げると、あの独特な一瞬針に刺されるような痛みに襲われたらしく手を振っていた。
「舟の話は後にしてくれ。
私の財産の危機なんだ」
「いや、そうはいかねぇ。一刻も早く出してもらう。
俺さえ消えれば万事は丸く収まるんだからな」
「馬鹿言え。お前が消えたところで、この状況にとってはプラスにもマイナスにもならない。
あの式神は私を追ってきてるんだ。負けた恨みか有り金はたいた馬鹿が買ったんだろうよ」
「あいつは俺を追ってきてる」
二度は馬鹿を言えと笑わなかった。
藤次郎の瞳があまりに嘘をついていなかった。
「早く出せ。
関係のないお前が巻き込まれるのは本望じゃねぇだろ?」
「……乗りかかった船は飛び下りて泳げばいいだけの話だしな」
直後に辺りを埋め尽くした黒い影。
待っていたとばかりに藤次郎の胸ぐらを掴み、再び閃光が皮膚を這う。
足を一歩踏み出すと同時に、炎魃の元まで辿り着き、そのままの勢いで荷物を投げた。
「おい、待てよ!」
「黙ってろ」
その二言だけの会話を耳に残し、足首を捻って式神を向く。
抜刀した瞬間、全てが終わっている。
あの化物の濁った目と目の間、眉間を焼き焦がさんばかりに睨む。
ああ、今日は睨んでばかりだ。面倒事は船にもあったし、ストレスが溜まる。溜まると頭痛がひどくなる。白兎に癒してもらわねば。
あの汚らしい牙と爪が甲板を引きばかしながら迫り来る。
狙っているのが私か藤次郎かなんてどうでもいい。
柄に人差し指から順に指をかける。
小指がかかると同時に、鯉口を切った。
澄んだ音を響かせて、煌めきを見せることなく刃が鞘に収まる。
背後でぴたりと動きを止めた式神の身体がズレた。
もしやつにも意思というものがあったなら、電撃を見た途端に逃げ出したに違いない。
真っ二つに裂けた身体は甲板に倒れる前に塵芥となり消えてゆく。
最後の肉が消えたとき、一枚の紙切れが宙に残った。
ひらひらと舞い落ち、青白い炎を上げて燃え上がる。
灰となった紙は風に吹き散らされ、どこともしれぬ彼方へ飛んでいった。
動物的本能さえ備えていれば、また使えただろうに。
それを確認すると、止めていた息を吐き出した。頭痛がする。
「動ける奴は怪我人を救護室へ運べ!」
刺すように痛む頭を揉みながら、部下たちに指示を出すと、にわかに甲板が騒がしくなった。
意識を確認する者、手を貸すよう頼む者、散らばった銃を集める者。
各々が動き出したのを見計らい、炎魃を手招いて近くへ呼び寄せる。
「虎介に言って被害の程度を調べさせろ」
「分かり申した。夏蔭殿はしばし休まれよ」
夏蔭が顔をしかめて頭を揉む様を見て、悟ったのか炎魃は頷きとともにそう付け加えた。
元気に走り去る彼を羨ましく思いながら船内に消えるまで見送り、傍らに差し出されたキセルに手を出した。
胸一杯に煙を吸い込めば、少し楽になったような心地になる。
「ありがとうな白兎」
「いえいえ、お気になさらずに」
キセルをしきりにふかして、船の状況を見ていると、藤次郎の視線に気付いた。
お前も一服どうだと仕草で示すも、つれなく断られる。
「巫覡だったのか」
「まあな。じゃなきゃあんな余裕でいられないさ。
そうだ。舟の話だったな。甲板が片付くまで待ってくれ」
「いや、いい」
せびったのはお前のほうだろうと呆れて物も言えないが、藤次郎を追っていたと思われる式神が消えたのだからそれも当然か。
欄干に腰掛け、一際長く息を吐く。
白い煙は風に乱されながらも、澄みきった青空へと上っていった。
ここを出ないとなれば、次に来る言葉は決まっている。
「しばらくここに置いてくれ」
「ああ、いいぞ」
こんなにあっさりと了解が取れるなんて思いもよらなかったのか、藤次郎は少し目を丸くする。
心配そうに夏蔭を見上げていた白兎の頭を撫でて、もう大丈夫だと囁いた。
頭痛は消えていた。
「ただし次に陸へ着くときまでだ。
うちの者でもないのに長く養っていられるほど、私もお人好しじゃないんでね。
ま、この分だとお別れも早くなりそうだが」
一番の不安の種である微かに傾いた帆柱を眺め、かさむ出費を嘆いてため息をついた。